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方正友好交流の会

日本人公墓がハルピン市の郊外にあるのをご存じですか?

中国人の土地を奪って入植した日本人たち

中国の東北部、ハルピン市郊外の方正(ほうまさ)県に日本人公墓があります。

1945年の8月9日、ソ連軍は国境を越えて旧満洲(当時、“満州国”という日本の傀儡国家があった)に侵攻しました。

ソ連との国境沿いに入植していた「開拓団」の人々は驚きました。続いて8月15日の日本の敗戦は状況を一変させました。

今まで日本人たちに従順だった近隣の中国人たちは、日本人に土地を奪われた長年の恨みを一気に晴らすかのように、日本人たちを襲いました。

「開拓民」たちと呼ばれた日本人たちはソ連軍と中国人たちに攻撃され、逃げ惑いました。

日本人たちは、ともかくハルピンを目指そう、そうすれば日本に帰れるだろう。ハルピンに行くにはまず、方正に行こうと逃避行を続けました。

なぜ方正を「ほうまさ」と呼んだのか。普通は「ほうせい」と呼ぶはずです。しかし、黒竜江省には宝清という県があり、そこを「ほうせい」と呼び、方正を「ほうまさ」と呼んで、当時の日本人たちは区別していました。

バタバタと死んでいった「開拓民」の日本人たち

方正には「関東軍がいる、食糧基地もある」と言われていたので、日本の人々は方正を目指しました。
そこへたどり着く前、時には泣き叫ぶ幼児を殺し、老婆を見殺しにしての逃避行は二カ月、三カ月もかかり、やっと方正にたどり着きました。

しかし関東軍は彼らを見捨てて南方に去って行っていていませんでした。時は、1945年の秋から翌46年の冬。中国東北では厳しい酷寒の季節です。

日本人たちは収容所に収容されましたが、飢餓と伝染病の発疹チブスの発症で、バタバタと子どもや老人が死んでいきました。
このままでは、自分も死ぬ、なんとか中国人の嫁になって生き延びるしかない。子どもを中国に預けて生きるしかないと日本人は思い、そうして事実、そのような選択をした婦人たちは生き延びました。

山形県天童市出身の松田ちゑさんは、「絶対、中国人の嫁になんかなるものか」と思っていましたが、夫は現地召集されて行方不明、最愛の娘も死に、ついに「だれか中国のいい人がいたら紹介してください」と言い、中国人の嫁になりました。子供たちは中国人にもらわれて生き延びました。方正に、残留婦人や残留孤児と呼ばれる人々が一番多い地域になったのはそのような理由からなのです。

亡くなった5000人近い死者たちの亡骸は腐臭を放ち、伝染病の発生源になると、東北をいち早く支配した八路軍が三日三晩かけて死体にガソリンをかけて焼き、山の方に捨てました。

累々たる白骨の山

そして時代は、新中国の「大躍進」時代です。しかし毛沢東が推進した政策は失敗し、食糧難が中国を襲いました。ここに至って中国政府は、適当な土地があれば、そこを耕して自分たちで食糧を調達してよろしい、という政策になりました。

松田ちゑさんは、同じ中国人の嫁になった佐藤栄さんと共に、適当な土地を探そうと山に入りました。そうしたところ、松田さんは累々たる白骨の山を見つけました。松田さんはすぐにそれが、1945年の冬から翌年の春までに亡くなった日本人の死体だとすぐに思いました。子どもたちが白骨を蹴って遊んだり、犬が白骨をかじったりした白骨の山を見て松田さんは、この惨状を日本政府は知っているのだろろうかと思いました。
そう思った松田さんは翌日、方正県政府を訪ね、「どうか私たちで白骨の山を葬りたいと思います」と許可を願い出ました。

しかし、県政府の役人は即座に返答することができず。上級の黒竜江省政府に意見を求めました。省政府も困り、北京の中央政府にお伺いしました。そして陳毅外務大臣のところに書類が回り、最終的に周恩来総理が、「開拓民といえども日本軍国主義の犠牲者である」と、丁重に葬るよう指示して公墓建立を許可しました。1963年のことです。

翌年、立派な日本人公墓が建立されたのです。これこそ、新中国の輝かしい国際主義精神の象徴です。その後の「文化大革命」の時代、紅衛兵たちはこの公墓を打ち壊そうとしました。しかし当時の方正県政府は「これは日本軍人の墓ではない。日本の庶民たちを葬ってある墓である」と紅衛兵たちの要求を退けました。

方正友好交流の会は、この知られざる日本人公墓を多くの日本の人々に知ってもらい、国境を越えた人々の友愛精神を広めていこうと2005年6月に発足し、会報「星火方正」を年に二回発行しています。

なぜ被害者の国が加害者の墓を?

丹羽宇一郎元大使による参拝

丹羽宇一郎元大使による参拝

この公墓の存在を「星火方正」で知ったドキュメンタリー映画作家の羽田澄子さんは驚きました。なぜ「被害を受けた国が加害者たちの墓を建てたのか」。羽田さんはそうして記録映画『鳴呼 満蒙開拓団』を制作し、2009年夏、岩波ホールで上映され、その後全国で続々と上映されました。

映画の冒頭に、私が日本人公墓の存在を知ったのは「『星火方正』という不思議な雑誌からです」という羽田さんのナレーションが流れ、「星火方正」の創刊号、そして二号の表紙が映しだされます。

少なからずの人たちがこの映画によって初めて日本人公墓の存在を知ったのです。映画の最後に流れるエンドロールには<協力、方正友好交流の会 大類善啓>という字が流れ、コーディネーターを務めた、今は亡き方正の会・参与の奥村正雄の名前も流れました。

この映画をぜひ、当時の美智子皇后に見せたいという羽田さんの願いを聞いた大類(当時、事務局長、現理事長)はある人を仲介にして両陛下が『鳴呼 満蒙開拓団』をご覧になり、それは長野県にある「満蒙開拓平和記念館」への見学につながりました。

日本人の加害と被害を、象徴的に示す存在が「方正地区日本人公墓」です。そして1984年には黒竜江省麻山地区で集団自決した「開拓民」たち400人ほどの人々が眠る「麻山地区日本人公墓」もその隣に建立されています。

ぜひ方正友好交流の会の活動を知ってください。近年ますます好評の「星火方正」をお送りします。「この充実した会報が会費とカンパでできているなんて本当に驚きです」という著名な週刊誌の編集長から手紙ももらいました。ぜひお読みください。ご希望の方にはお送りいたします。

方正友好交流の会 事務局

101-0052 東京都千代田区神田小川町3-6 日中科学技術文化センター内

電話:03-3295-0411 FAX:03-3295-0400 大類(おおるい)まで

㈱JCST企画の活動

2019年9月弊社団とアカネインターナショナル株式会社が合併し、株式会社JCST企画を立ち上げました。メイン事業は旅行事業・貿易事業・特定技能支援事業の三つがあります。

旅行事業

国内旅行

お客様のご要望に合わせて、交通・宿泊・飲食を含め旅行サービスの企画作成、旅行手配と旅程管理をいたします。

国内旅行

インバウンド

中国からの企業・政府の短期研修・訪問団、一般観光客の旅行団の現地手配を担当しており、2019年に41団を受け入れております。

インバウンド

貿易事業

iFLYTEK JAPANの販売代理をはじめ、2020年10月から貿易事業をはじめました。

特定技能支援事業

2020年10月30日、登録支援機関(登録番号:20登—005273)に登録されました。今後、特定技能支援事業も展開致します。